般若心経

後半 羯諦(最終章)

般若心経は釈迦の教えではないのにも関わらず、大衆に救いを与える素晴らしいお経です。

釈迦の教えは、十二支縁起に従って無明を減じていくために四諦を軸とし煩悩を滅していく厳しい修行です。般若心経は、釈迦の教えをあえて全否定することで、超自然的な力に救われたいという他力本願な大衆に歓迎されたのです。

《般若心経を一回唱えるたびに、数億年分の修行と同等の価値がある》

つまり般若心経は、救済の呪文なのです。これは空海の説です。


《無無明亦無無明尽。乃至、無老死亦無老死尽。無苦集滅道》

煩悩を産む無明というものは存在しないし、十二支縁起の終点の老死も存在しないと言います。釈迦が教えた、この世の全ての苦しみに対処する方法である苦諦、集諦、滅諦、道諦(八正道)すらも錯覚であると。

ここまで口を酸っぱくして、なぜ全てが無だと言い続けたのか?それは、釈迦の修行で獲得できるものは無だ、というためです。

《無智亦無得、以無所得故。菩提薩埵、依般若波羅蜜多故。心無罣礙、無罣礙故。 無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。》

修行して「獲得」するものはない、全てが無であるがゆえに。 菩薩にとっては獲得することも喪失することも無いがゆえに、般若波羅蜜多の修行により、心に憂いも恐怖もなく過ごすことが可能であり、転倒した夢想にふけることもないのである。

これが涅槃に入る、という状態であると。

《三世諸仏依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提》

その証拠に、過去・現在・未来の複数人のブッダは般若波羅蜜多の修行により、悟りを得た。

《故知。般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪。是無上呪、是無等等呪。》

ゆえに知りなさい。般若波羅蜜多とは、大いなる至高の呪文なのだと。 般若心経の意味を理解せず写経するという行為、般若心経の意味を理解せず声に出す行為、そして耳なし芳一の体の周りに意味を考えずとにかく書くという行為は、般若心経のもともと意図したところだったのです。

《能除一切苦、真実不虚。》

その呪文は一切の苦しみを鎮め、嘘偽りのない真実である。 それを口に出すと次のような呪文になる。(サンスクリット語)

《故説般若波羅蜜多呪即説呪曰、 ガテー(羯諦)ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー(※この部分はサンスクリット語) 般若心経。》

このサンスクリット語の呪文をとにかく唱えなさい。 すなわち、般若心経とは、この最後の真言を唱えるという行為の説明書なのです。 般若心経を1度唱えることは、数億年分の修行に相当すると考えられています。

では結局、「空」とは何だったのか?それは一文字で、無限の宇宙を表すために発明された表現法だと言えます。釈迦の十八界と諸法による分析的宇宙観を超えた、神秘的なホーリズム的宇宙観を、一文字で表したものなのです。

(ここは本に書いておらず個人の意見ですが、西田幾多郎の哲学に近い気もします。あらゆる分類作用が起こる前の主客未分離の純粋経験=空、であると考えられます。)

釈迦はカルマを断つために、悪行はもちろん一切の善行もしてはならないと説きます。しかし大乗仏教では善行を積み、その力を廻向させることで悟りを得ます。これは釈迦の小乗の教えと矛盾しています。そのため、般若心経を使って、善行を空とすることで正当化し、論理破綻を避けたと考えられています。

釈迦の元の教えでは、50億年 x 現在過去未来のブッダの総人数の年数分修行を続けなければ悟りを得ることはできません。 これに対し一般人にも、悟りに近づく別の可能性のロジックと具体的な方法論を示したところが般若心経の素晴らしさなのです。

(終)

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