欲望のメディア

3章 郵政大臣・田中角栄

【要約】欲望のメディア【猪瀬直樹】

第3章 ※大衆が主人公です

【大衆がスターと時代の変化を求め、テレビの普及率が100%に達するまで】

テレビは1953年の段階では現在の価値に換算して1台1000万もした。そこで、正力は街頭テレビを設置することにした。正力自ら効果検証を行い、テレビの位置極めにこだわった。この時点ではテレビ広告という概念がなく、どれだけの人にテレビがリーチ出来るか未知数だった。正力は国鉄総裁に直談判して東京駅にも街頭テレビを設置した。

山の多い日本はアメリカの技術では電波が届かず、全国ネットの構築は困難を極めた。

テレビの人気に火をつけたのはボクシングだった。新宿西口のテレビに2000人が群がった。その様子が静止画で放送局に送られ、木に登らないでくださいとアナウンスが流れる双方向テレビ。しかし、ボクシングのタイトルマッチは常にあるものではない。プロレスが流行る下地が整った。

力道山は単なるレスラーではなく、プロモーターであった。対戦組み合わせから演出まで全部自分でデザインしなければ気が済まなかった。空手チョップは、音が大きくなるように手のひらに空気を入れるなど改良した。力道山はプロレスを育てて、相撲以上にし見返してやろうとしていたのだ。

力道山はアメリカで武者修行してきたが、そこで外人レスラーとの膨大なコネを作った。巨漢の白人シャープ兄弟を占領者アメリカに見立て、ショーを作り上げた。力道山にとっては日本もアメリカも同じ外国であるから、理詰めで自分がスターになるための台本を組んだと言える。資産家の永田と組んで広告も大量に打った。 街頭カメラとプロレスの融合。革命が起きた。有楽町の1個の街頭テレビの前に20000人が集まった。2日目のチケットは7倍まで値上がりした。

力道山以外、テレビ映えの仕組みを分かってはいなかった。木村も、山口も、遠藤も、東富士も、力道山の引き立て役として利用されては落ちぶれていった。力道山はテレビの効果測定に凝っていて、テレビがあると視聴者が満足したかのインタビューを繰り返し行っていた。

日本のテレビの台数は1954年には5万台、翌年17万台、翌年42万台、翌年100万台、翌年198万台、翌年415万台と倍々ゲームで増えていった。

力道山に乗っかって特に売れたのがゼネラルというメーカーのテレビだった。が、所詮は粗悪品の誹りを免れず松下や三菱電機に負けて消えた。

39歳の郵政大臣田中角栄の機動力は縦割りで動きの遅い官僚機構を独断と独裁によって凌駕した。本来、大臣は次官と違って絶対の権限を持っている。田中角栄は36局の民放テレビ局に新規免許を強引に与えた。電波塔も東京タワーに統一された。

1966年、テレビの広告収入は新聞を抜いた。

一方、番組の低俗化に歯止めがかからず、「一億総白痴化」が流行語となった。勧善懲悪のローハイドは視聴率44%、ボクシングのペレス戦は89%もの空前の視聴率。この時代は番組を買うために受像機を買う層が多かったため、このような異常な視聴率となった。

ここで御成婚が起こる。恋愛結婚はこの時初めて公に肯定されたのだった。いわば、恋愛結婚の時代の象徴としての皇太子であった。パレードに集まった群衆は54万人。 (※人口が違うが、現在のコンサート動員力ランキング1位と同程度と言える) 投石事件が起きたが、編集で無かったことにされた。

1964年、再びオリンピックのチャンスがやってきた。テレビ普及率は93.5%。1章、ラジオ番組で活躍した鶏郎はCMソングキングとなっていた。ナショナル、仁丹、ルル三錠などなど。鶏郎の金を巡って、殺し合いまでおき、実際に殺人事件が起きた。鶏郎は絶望し、50歳で隠居した。意外にも、作家の野坂昭如もまた鶏郎の金を横領し豪遊した1人だった。

このとき正力79歳は、最後の力を振り絞って、全国ネットを完成させようとしていた。なんと、地方ではラジオ局を多数持つTBSが覇権をとり、美味しいところを掻っ攫おうとしていた。さらにフジテレビ朝日テレビと対立。朝日新聞の広岡は田中角栄に頼り、突破口を開いた。正力は84歳で失意のうちに死んだ。

第4章 最後の開局 につづく(最終章)

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